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梦回本能寺
心无一物

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了解~~ l37l| xp~  
&_Gu'A({J  
不过我在日史的ID,恐怕早就过期了,不晓得他们现在还能不能注册~~我今天去看看~~~ mP ^*nB@,  
过期的话,再申请一个看看~~。。。。。STO...
四十九年一睡梦,一期荣华一盃酒
顶端 Posted: 2008-01-23 17:51 | 20 楼
不死之鬼美浓
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宗信的意思就是在本区开个类似此帖的帖子:http://www.toyotomi.cn/topic12263    而不是去日史开帖,虽然混本论坛的不少也混日史………………

小樱韦威铠
顶端 Posted: 2008-01-23 19:06 | 21 楼
细川雅信
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……最近梦回总是误解我…… k(;c<Z{?1  
E*Q><UU  
日史现在是邀请注册吧 #)BdN  
F W# S.<  
另外,我的意思就是在本区开贴的说……
我总是在最绝望的深渊里,遇见最美丽的惊喜。
顶端 Posted: 2008-01-23 19:16 | 22 楼
梦回本能寺
心无一物

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=_______= ……。。。。 1b'1vp  
U jC$Mi`O  
我痴呆了。。。 
四十九年一睡梦,一期荣华一盃酒
顶端 Posted: 2008-01-24 11:49 | 23 楼
saphires
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宗信我来交文了 +MQf2|--  
UJ)\E ^Hp  
氷上川継の乱(ひかみのかわつぐのらん)は奈良時代の政治事件。天武天皇の曾孫の氷上川継が謀反を企てるが露見して失敗した。 SF;;4og  
ZBJYpeGe  
冰上川继之乱是奈良时代的政治事件——天武天皇的曾孙冰上川继阴谋造反终于失败一事。 CPGXwM=   
Ckvm3r\i2  
宝亀元年(770年)称徳天皇が崩御して、天智天皇の孫の白壁王が即位した(光仁天皇)。壬申の乱以来、天武天皇の子孫が皇位を世襲してきたが、奈良期に打ち続いた政変で天武系の皇族の多くが殺されるか刑を受けていた。そのため称徳天皇の死によって天武系の主流が断絶して、天智系の天皇が復活することとなった。 u:N/aaU=  
>U9!KB  
宝龟元年(770年)称德天皇驾崩,天智天皇之孙白壁王即位——是为光仁天皇。虽说自壬申之乱以来天武天皇的子孙一直世袭着皇位,可由于奈良时期持续不断的政变导致了大量天武系的皇族被刑罚所虐杀。于是此次称德天皇的死可谓是天武系皇族主流的断绝、天智系天皇的复活事件。 b9OT~i=S|  
7BF't!-2F  
氷上川継は塩焼王(氷上塩焼)と不破内親王(聖武天皇の皇女)の子で天武天皇の曾孫になるが、塩焼王が藤原仲麻呂の乱に与して処刑されたこともあり、皇嗣からは外されていた。両親とも天武天皇の系統の川継こそが正統の皇位継承者であると考える者も少なくなかったと思われる。 x-U^U.i@  
RN3w{^Ll  
冰上川继是盐烧王(冰上盐烧)与不破内亲王(圣武天皇的皇女)之子、天武天皇的曾孙。可由于盐烧王在藤原仲麻吕之乱中被处刑,于是一族被剔除出了皇嗣系统。不过认为惟有双亲皆为天武天皇后代的川继才是正统皇位继承者的人也不在少数。 T{|'<KT  
~/\;7E{8!  
天応元年(781年)光仁天皇は皇太子の山部親王へ譲位した。桓武天皇である。即位の翌年の延暦元年(782年)閏正月、川継の資人の大和乙人が武器を帯びて宮中に闖入して捕らえられた。訊問を受けた乙人は主人の川継の謀反を白状する。その証言は同月10日夜に川継が一味を集めて北門から宮中に押し入り、朝廷を倒そうと云うものであった。直ちに川継を捕らえるため勅使が派遣されるが、川継はいち早く逃亡してしまう。間もなく、同月14日に川継は大和国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。 :M ix*NCf  
(J<@e!@NE  
天应元年(781年)光仁天皇将皇位让于皇太子山部亲王,即恒武天皇。恒武天皇登大位的第二年——延历元年(782年)的闰正月,川继的资人(较为高级的舍人,服侍皇族,可视为川继的心腹)大和乙人因携带武器闯入宫中而被捕。经过讯问后乙人招出是他的主人川继图谋造反。而这个证言又证实了同月10日晚,川继召集手下从北门闯入宫中意图造反乃是事实。如此这般朝廷立即派遣了敕使前去逮捕川继,可这时的川继却早已逃之夭夭了。不久之后的同月14日川继在大和国葛上郡的藏匿之所被捕获。 n\*>m p)  
}k<b) I*A  
川継の罪は極刑に値するところ、死一等を減じられて伊豆国へ流罪となった。母の不破内親王と川継の姉妹は淡路国へ流された。この事件に連座して川継の舅である参議・藤原浜成(藤原京家)は大宰員外帥に左遷され、京家は二代目にして早くも没落した。また山上船主、三方王、参議・大伴家持、右衛士督・坂上苅田麻呂らも処罰を受けた。(家持、苅田麻呂は嫌疑がはれてもとの地位に復している) E] t:_v  
oRy?Dx+H  
虽说川继之罪已可处以极刑,但估计是因为其是皇族而被法外开恩流放去了伊豆国。其母不破内亲王和他的姐妹也都被悉数流放到了淡路国。由此被连坐的还有川继的舅舅——参议藤原滨成被左迁为大宰员外帅,后来到了第二代京家这里便没落了。另还有山上船主、三方王、参议大拌家持、右卫士督坂上苅田麻吕等数人也受到了处罚。(家持、苅田麻吕两人后因嫌疑被洗脱而恢复了原来的地位。) r em&F'x0V  
N(}7M~m>  
同年5月、右大臣藤原魚名が罷免されている。『続日本紀』には罪状についての記録はないが、川継の事件に連座したものと考えられる。 klUxt?-  
 h:#  
同年5月,右大臣藤原鱼名被罢免。虽然《续日本纪》中并未记录其罪状,但也可以认为他是遭到了川继事件的连坐处罚而被罢免的。 F!`.y7hY@  
68)z`JI|<)  
この事件によって天武系の皇族は完全に皇位継承から排除された。 tmK@Veb*a'  
:'Imz   
由此天武系的皇族被完全排除在了皇位继承系统之外了。 <s+=v!  
9qQ_#$Vv  
桓武天皇の崩御後の大同元年(806年)川継は罪を許されて従五位下に復している。 WU#bA|Cf  
i n#qV  
恒武天皇驾崩后的大同元年(806年)川继被赦免其罪官复从五位下。
[ 此贴被saphires在2008-01-24 18:55重新编辑 ]
本帖最近评分记录:
  • 永乐通宝:+100(上杉宗信) 详实资料
  • 顶端 Posted: 2008-01-24 13:15 | 24 楼
    细川雅信
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    多谢YUTA啊,嗯,待我算好字数给你加奖励
    我总是在最绝望的深渊里,遇见最美丽的惊喜。
    顶端 Posted: 2008-01-24 14:20 | 25 楼
    saphires
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    没什么,举手之劳罢了
    顶端 Posted: 2008-01-25 12:01 | 26 楼
    细川雅信
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    以后要常来啊,我可能随时更新呢
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    顶端 Posted: 2008-01-25 13:57 | 27 楼
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    第三章 守護支配の展開 JguE#ob2  
       第三節 室町幕府と国人 ]#S1 AvT  
        一 国人層の活動 rU.ew~  
          国人領主堀江氏 /MQd[03]  
    En5I  
     堀江氏は加賀の富樫氏や林氏などと同族で、鎮守府将軍利仁の末裔と称する(通1 六章二節参照)。堀江氏の子孫が伝えた系図によれば(「岡部家系図」)、利仁将軍の八代後の実澄の子実嗣が建久年間(一一九〇~九九)に河口荘堀江郷に住み、郷名をもって堀江氏と名乗るようになったと伝える。これらの点を事実として確かめることはできないが、少なくとも室町期において堀江氏は先祖が利仁将軍であり、鎌倉幕府の成立した建久年間以来この地に土着していたことを主張するようになっていた。すなわち、応永二十五年(一四一八)に河口荘の本庄郷満丸名と新郷鴫池の支配権を興福寺福智院栄舜と争った堀江道賢(教実)は、その申状のなかで鴫池は先祖利仁将軍以来の由緒の地であるとし、満丸名は建久以来の将軍・門跡の数通の補任状を得ていることを挙げ、自らの支配権の正当性を主張している(資2 福智院家文書七号)。建久以来の補任状の存在は疑わしいが、確立した室町幕府体制のもとで強められてくる守護の支配に対応して、堀江氏は加賀の国人たちと同じく利仁将軍伝承を拠りどころとする土着性の伝統を主張したものと考えられる。 _6=6 b!hD  
     堀江氏が初めて史料に現われてくるのは応永三年の堀江賢光である。この年、興福寺大乗院門跡は坪江下郷出来島について三国湊からの違乱を排除し、同郷阿古江に属して支配すべきことを堀江賢光に命じている(「坪江郷奉行引付」)。少しのちの応永十九年に、越前の住人である堀江・桑山らが興福寺の代官あるいは守護被官人としての権威を背景に内膳司領三国湊の住宅などを押妨したとされており、堀江氏は興福寺の三国湊代官であったことがわかるが(資2 宮内庁書陵部桂宮家文書三号)、それは賢光のときにまでさかのぼるのである。この賢光は右の堀江道賢申状のなかに、河口荘内のいくつかの名田を道賢に譲与したことがみえており、またのちに河口荘細呂宜郷上方の代官堀江越中守景用は「一代政所賢光」の子であるとされている(『私要鈔』寛正五年五月二十九日条)。これらを総合すると、堀江賢光は河口荘内のいくつかの名の名主として利仁将軍以来の伝統を誇るとともに、荘園領主の興福寺から三国湊や細呂宜郷の代官に任じられていたことがわかる。応永二十一年八月、年貢などを無沙汰したため河口荘の政所・公文が上洛を命じられているが、そのなかに本庄郷公文・細呂宜郷上方政所の堀江石見入道、細呂宜郷公文・同郷下方政所の堀江帯刀、荒居郷政所堀江三郎左衛門がいる(「寺門事条々聞書」)。この堀江石見入道が賢光の子とみられる道賢であろう。河口荘のその他の郷の政所・公文には守護家臣の甲斐・朝倉・織田氏らが任じられているが、この地に土着する道賢を中心とした堀江一族はいくつかの荘官職を保持して勢力を維持していた。
    我总是在最绝望的深渊里,遇见最美丽的惊喜。
    顶端 Posted: 2008-02-07 18:57 | 28 楼
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    津轻氏家纹由来 ]lZ!en  
    Q^fli"_ :  
    津軽氏の出自は諸説があるが、南部氏の一族とみるのが正しいようだ。その家紋もはじめは南部氏と同じく、「鶴紋」を用いていたと想像されるが、その真偽は確かめようがない。 ? 76jz>;b  
     家紋に関する津軽氏における伝えとしては、「津軽古代の紋形は卍字、幕紋は錫杖にて候、世人の申し候通り、田村丸(坂上田村麻呂)軍陣に用い候古例により、左衛門入道(秀栄)当郡(津軽郡)入部以後用いられ候由、承知いたし候」とあるが、田村麻呂の時代に家紋があったとは思えず、後世の作為であろう。 K +w3YA  
     津軽氏は軍旗に「卍」を用いていることから、戦国時代は卍を紋として用いていたことは間違いないようだ。江戸時代になると「牡丹」も用いたが、これは近衛家との関係から用いるようになった。伝によれば、戦国時代近衛氏と津軽氏の娘との間に生まれた男子が家督を継いだといい、それを根拠に為信は源姓から藤原姓に替え、家紋も「牡丹」を用いるようになった。津軽氏の牡丹紋は、とくに「津軽牡丹」と称される。 X`J~3s  
     その他、津軽氏では「錫杖」「輪宝」を用いた。錫杖は、それを突き鳴らすことで発する金属音が猛獣、毒蛇のたぐいを退散させる行者の道具であった。それが、仏説に煩悩を去らしめ、三界を離脱せしめる功徳のシンボルとなった。輪宝は、車の周囲に鋭利な刃をつけたもので、その回転によってどんな敵も破砕せずにはおかない。護法、護身の法器として、古くから修験者に尊ばれた。 Rfa1 v*(  
     津軽氏の家紋は「卍」といい、「錫杖」「輪宝」といい、いずれも抹香くさいものばかりである。これは武士としての信仰心とともに、戦場において仏の加護に与ろうとしたものと考えられる。 #[I`VA\x  
     また、支流黒石津軽氏は、「牡丹」を定紋として「フツの字」を用いた。フツの字は「亜」の字と間違えられやすいが、勧善懲悪とか怨敵退散などの仏教的意味をもつ。閻魔さまの着物はこのフツの字が散らされている。本家同様にこちらも宗教くさい家紋といえよう。
    我总是在最绝望的深渊里,遇见最美丽的惊喜。
    顶端 Posted: 2008-02-14 13:48 | 29 楼
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    南部氏家纹由来 RUO,tB|(_;  
    (kb^=kw#0  
    南部氏の家紋は「対い鶴に九曜」として知られる。本来は、南部光行の画像にも見られるように武田氏族らしく「割菱紋」であった。室町時代の応永十八年(1411)、南部守行は根城南部光経とともに秋田の安東鹿季と戦ったが、その陣中に二羽の鶴が飛来し、それを瑞祥として兵を進めたところ勝利をおさめることができた。戦後、これを記念して家紋を「二羽鶴」に改めたのだという。 iSIj ?.  
     一方、初代光行が建久四年(1193)の春、源頼朝に従って浅間山に狩をした。そのとき陣所近くの池に鶴が二羽まいおりたのを、頼朝は鶴を殺さないようにして射とれと部下にいった。光行は進みでて一羽は翼を、もう一羽は足を射て生け捕りにした。頼朝は一羽を天皇に献じ、一羽を陣中において光行を大いに誉め讃えた。南部氏の「対い鶴紋」はこれを記念したものだともいう。 EkjO4=~UC  
     永享七年(1435)に鎌倉公方が、常陸長倉城主の長倉遠江守を追罰した戦記物『羽継原合戦記』には「ひすつるは南部かもん」とあり、南部氏がこのころには「菱鶴」を家紋としていたことが知られる。戦国時代に至って、現在のような「対い鶴紋」に変化したようだ。 [gH vI  
     南部氏の対い鶴紋は胸に記された「九曜」が特長的なものだが、この九曜紋は下総の千葉氏の例でも知られるように、武家が信仰した「妙見信仰」にちなんだものであろう。南部氏は定紋の「対い鶴」を据えた軍旗が知られるが、この「九曜」のみを取出して旗印に据えた軍旗も用いている。江戸時代の川柳に「鶴の胸 出来物らしく 紋をつけ」というのがあるが、たしかにそのようにも見える。
    我总是在最绝望的深渊里,遇见最美丽的惊喜。
    顶端 Posted: 2008-02-14 13:48 | 30 楼
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    河村氏家纹由来 mpXc o *!_  
    <P}{0Y~@*W  
    河村氏の家紋は、様々なものが用いられているとはいえ「丸の内に直違い(違い棒)」が著名である。武家の家紋の特長としては、戦場における視認性と戦場ですぐ描ける単純で明快な図柄が好まれた。その意味では、河村氏の家紋はまことに武家らしい家紋といえよう。その由来について、遠祖藤原秀郷が近江国瀬田川の竜神に頼まれて、三上山の大百足を退治したことに因むという。すなわち、丸は百足を、違い棒は矢をあらわすと伝えられている。 K.b-8NIUW  
     河村氏は、秀郷流波多野氏の分かれであることは本文に記したとおりで、一族には松田氏・広沢氏らがいた。松田氏も家紋に「直違い」を用いており、その図柄は『見聞諸家紋』に「二重直違い」として描かれている。見聞諸家紋には河村氏の家紋も記され「直違い竹」である。それぞれ、その原型が「直違い」であることはいうまでもないだろう。  SvDVxK  
     河村氏は相模から発祥して、奥州・越後にも一族が広がっていった。奥州の河村氏の場合、斯波氏に仕えて戦国時代に至ったが、斯波氏が没落してのちは南部氏に仕えて近世に生き残った。盛岡藩士諸家の系図集『参考諸家系図』を見ると、河村一族諸家が「直違い」を用いていたことが知られる。 0gfa7+Y  
    名字 家紋 >JrQS"[u  
    大萱生氏 違棒紋 下藤紋 左二巴紋 K^s!0[6  
    川村氏 違棒紋 h"]v+u`!SM  
    手代森氏 違棒紋 }UQBaqDH  
    杤内氏 違棒紋 四目結紋 花菱紋 QfT&y &  
    江柄氏 違棒紋 違釘貫紋 左三藤丸紋 :eei<cn2  
    大巻氏 違棒紋 蔦紋 C37KvLQ  
    中村氏 違棒紋 藤菱紋 ^<[oKi;>  
    日戸氏 違棒紋 下藤紋 左二巴紋 &{/ `Q ,  
    渋民氏 違棒紋 下藤紋 ,R ]]]7)+  
       玉山氏 違棒紋 百足紋 |giK]Z  
    川口氏 違棒紋 百足紋 O^F%ssF8  
    下田氏 違棒紋 蔦紋 "2N3L8?k  
    沼宮内氏 下藤紋 三亀甲紋 藤丸紋  :=UeYm @  
      {C|#<}1  
      ところで、「直違い」は二つの線を左右から斜めに交錯させた、いわゆる「バツ」形をしている。北陸から東北地方にかけて、死者の出た家は青竹を切って家の前に立てる風習がある。また、江戸時代に閉門・謹慎の処分を受けた武家は、門に青竹を直違いに組んで人の出入りを禁じられた。古代には、誰かが死去すると直違いで住居を封じ、新たな住居へ移るということがなされていたという。 }4 P@`>e/`  
     このように、「直違い=×印」は、死者の霊を封じ、内外との交流を断つ呪術性があった。その呪術性から、武家が戦場の旗印に用いるようになり、やがて家紋に転じたものと思われる。織田信長に仕えた丹羽長秀も「直違い」を家紋としていたことは有名である。武家の家紋の場合、武運を神に願い神社・信仰にゆかりのあるものが多い。千葉氏の妙見信仰に因んだ「曜星紋」はその典型といえるものであり、河村氏の家紋も「直違い」のもつ呪術性から家紋に用いられるようになったのであろう。 mS&[<[x  
     ところで、数ある家紋のなかに神社建築に用いられる「千木」があるが、その図柄は「直違い」とよく似ている。ひとつの推測として、「直違い」は千木から変形したものとも考えられる。
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    顶端 Posted: 2008-02-14 13:49 | 31 楼
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    和贺氏家纹由来 :sk7`7v  
    VKS:d!}3E  
    和賀氏が用いた「笹竜胆紋」は清和源氏のシンボルとされ、源頼朝の紋であったともいわれる。『勧進帳』や『曽我の仇討』などの歌舞伎でも、源氏を表現するものとして見られる。頼朝が「笹竜胆紋」を自らの紋章として用いた可能性は否定できないが、当時、頼朝が笹竜胆紋を家紋として用いたとする確かな記録も見いだせない。 Q?I)1][ !"  
     それは当然のことであって、当時、家紋は一部の武家を除いて定着していなかった。また、頼朝は源氏の氏の長者であって、そのシルシは白旗ぐらいであった。家紋は名字を表わすシルシであり、氏から分かれたものが用いた。つまり、氏の棟梁である頼朝が家紋を用いることはなかったのである。 TM[Z~n(wt  
     とはいえ、笹竜胆紋を用いる武家は、頼朝ともっとも近い流れの家である清和源氏為義流・同氏義時流の諸氏であり、頼朝の落胤を称する奥州の和賀氏やその一族の本堂氏らであった。これらのことから、「笹竜胆紋」が頼朝の家紋であったとされるようになったものであろう。 KFCuv15w,3  
     「笹竜胆紋」は清和源氏のシンボルというよりは、同じ源氏でも村上源氏の代表紋であった。ある書物によれば「久我家では成人になると、"竜胆たすき"の紋付を着…」とあることから、村上源氏である久我家が竜胆の家紋を使っていたことが知られる。『大要抄』には、中院宗輔の車文が竜胆であったことが記されている。中院氏は、久我氏と同じく村上源氏の一流である。その他、六条・岩倉・千種・久世などの村上源氏流公家が竜胆紋を用い、播磨の守護職であった赤松氏も村上源氏の裔を称し、三つ巴紋に加えて竜胆紋も用いた。 D0~WK stl  
     ところで、和賀氏にゆかりのある宮城県刈田疱瘡神社本殿の蟇股に見える和賀家の紋は、「石畳に立合雲」と「笹竜胆」で、和賀氏関連の遺物にも「石畳紋」が見られる。また、和賀氏を継ぐかたちとなった本堂氏は定紋に「八つ石畳紋」を用いている。これらのことから、和賀氏は石畳紋を本紋とし、笹竜胆紋が頼朝の紋であるといわれだしてから、頼朝とのゆかりを示すために「笹竜胆紋」を用いるようになったのではないだろうか。このことは、平家の出自を称する家が、平家の代表紋といわれる「揚羽蝶紋」を用いる事例と通じていて、家紋の由来伝説の一典型といえよう。 m/cbRuPWgP  
     ちなみに、近世南部藩士星川忠平正輔が編纂した盛岡藩士諸家の系図集『参考諸家系図』を見ると、南部氏に仕えた和賀氏一族の家紋として、 Y%anR|  
    名字 家紋 0F 0V JE  
    和賀氏 笹龍胆紋 立合雲紋 石畳紋 `jvIcu5c  
    太田氏 石畳紋 四目結紋 向白鳥紋 三階菱紋 7==Uz?}C  
    猿橋氏 石畳紋 舞白鳥紋 --Dw8FR9  
    岩崎氏 石畳紋 (GMKIw2  
    鬼柳氏 石畳紋 mhnD1}9,Ih  
    藤根氏 八石畳紋 p%]* I?  
    本堂氏 石畳紋 笹龍胆紋  kIiId8l  
      G>YJ3p7  
    が記されており、嫡流は「笹龍胆紋」、庶流は「石畳紋」を用いたことが知られる。
    我总是在最绝望的深渊里,遇见最美丽的惊喜。
    顶端 Posted: 2008-02-14 13:50 | 32 楼
    藤原樱千代
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    交文了:) Q2Yv8q_}Uq  
    ———————————————————— S/G,A,"c  
    第三章 守护制统治的发展 fB3O zff  
    第三节 室町幕府与国民 #E{aN?_  
    QTz{ZNi!  
    一  在地领主阶层的活动 Xd)ba9{  
    xGk@BA=0<  
    在地领主堀江氏 FT[oM<M\Xd  
    R`76Ae`R8  
    堀江氏与加贺的富樫,林氏等是同族,称为镇守府将军利仁的末代子孙。(通1,参照第六章第二节) `RthX\Tof  
    1.p?P] .  
    根据堀江氏的后人所传的家谱来看(《冈部家谱图》),传说利仁将军的八代子孙实澄的儿子实嗣在建久年间(1190~1199)于河口庄堀江乡居住,依据乡名取姓为堀江氏。 y z9`1R2c  
    hX`WVVoF  
    这些内容是否属实已无从知晓,但至少室町时期内堀江氏一直宣称,自己的先祖是利仁将军,且自从镰仓幕府成立的建久年间以来就一直居住在这块土地上。 `DG6ollp{  
    DECX18D  
    适逢庆永二十五年(1418),堀江道贤(教实)与兴福寺福智院荣舜争夺河口庄本庄乡满丸名和新乡鴫池的支配权。他在请愿书中提出,鴫池在其先祖利仁将军以来就一直是堀江氏的属地,而满丸名则是建久年代以来就获得了将军和堀江氏特属寺院的数张属地任命文书,因此主张自己拥有这些土地的支配权。(资2 福智院家文书七号) thipfS  
    S/~6%uJ  
    建久以来属地文书是否存在虽然还有疑问,但当时已确立的室町幕府体制强化了地方守护的统治,为了对应这样的政治体制,可以说堀江氏采取了加贺国民一样的手段,强调了利仁将军一脉传承之下的追根溯源,扎根本土的传统。 u\t[rC=yd  
    g_0"T}09(  
    堀江氏首次出现在史料中是庆永三年,人物是堀江贤光。 F#X\}MvEU  
    l2VO=RDiW  
    这一年中,兴福寺大乘院寺就坪江下乡出来岛的问题镇压三国凑地区的反抗,将出来岛从属于同乡阿古江,并命令堀江贤光统治该地区。(“坪江乡奉行”) zHb<YpU  
    "sT`Dhr  
    不久之后的庆永十九年,据说居住在越前的堀江和桑山等族依靠自己作为兴福寺代官或守护被官人等的权威作背景,强行将内膳司领三国凑的住宅等占为己有,而堀江氏成为兴福寺的三国凑代官这件事也应追溯到贤光那个时候。(资2 官内厅书陵部桂宫家文书三号) Qbl6~>T  
    A'[A!NL%  
    在刚才提到的堀江道贤的请愿书可以看到,这位贤光将河口庄内几处名田让与道贤,后来还出现河口庄细吕宜乡上方的代官堀江越中守景用乃是“初代政所贤光”的孩子之说。(《私要钞》宽正五年五月二十九日条) o&(%:|  
    }^`{YD  
    将这些内容综合起来看可以明白,堀江贤光作为河口庄内的几处名田的村长不仅拥有利仁将军以来的传统,还从作为庄园领主的兴福寺那里获得三国凑和细吕宜乡的代官之职。 Kw!`u^>  
    jvu,W4  
    庆永二十一年八月,由于长时间不缴纳年贡等,河口庄政所和公文被下令进京。这其中就有时任本庄乡公文,细吕宜乡上方政所的堀江石见入道,细吕宜乡公文,同乡下方政所的堀江带刀,和荒居乡政所堀江三郎左卫门。(《寺门事条条闻书》) Ql&P1|&  
    I=(O,*+PQ  
    这位堀江石见入道正是贤光之子道贤。河口庄其他各乡的政所、公文都任命给了担任守护家臣的甲斐、朝仓和织田等氏,但将扎根此地的道贤作为中心的堀江一族保有了几个庄官职,进而维持了自己的势力。
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  • 顶端 Posted: 2008-05-03 22:11 | 33 楼
    藤原樱千代
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    津轻氏家纹的由来 ~?L. n:wu  
    #vDe/o+=  
    津軽氏の出自は諸説があるが、南部氏の一族とみるのが正しいようだ。その家紋もはじめは南部氏と同じく、「鶴紋」を用いていたと想像されるが、その真偽は確かめようがない。 Xt7uCs  
    关于津轻氏的出身众说纷纭,基本上还是以南部氏一族的说法为准。普遍认为津轻氏的家纹原先与南部氏相同,也是使用“鹤纹”,但是并没有确凿证据证明这种说法是真是假。 $hEX,  
    RKBtw Zx>f  
    家紋に関する津軽氏における伝えとしては、「津軽古代の紋形は卍字、幕紋は錫杖にて候、世人の申し候通り、田村丸(坂上田村麻呂)軍陣に用い候古例により、左衛門入道(秀栄)当郡(津軽郡)入部以後用いられ候由、承知いたし候」とあるが、田村麻呂の時代に家紋があったとは思えず、後世の作為であろう。 #[i({1 `^L  
    关于家纹津轻氏的传说是,“津轻古代的家纹为卍字,(上级武士的阵幕上所印的)幕纹乃是锡杖,正如世人传言,这样的家纹曾在田村丸(坂上田村麻吕)的军阵上使用过,故在左卫门入道(秀荣)当郡(津轻郡)正式进入其领地之后得以使用。”不过难以想象田村麻吕的时代就有家纹,这可能也是后世以讹传讹而已。 ] xH `  
    YE^|G,]  
    津軽氏は軍旗に「卍」を用いていることから、戦国時代は卍を紋として用いていたことは間違いないようだ。 HZP`u >.  
    但津轻氏在军旗上使用「卍」貌似的确开创了战国时代使用该文字作为家纹的先河。 rsc8lSjH  
    s\KV\5\o  
    江戸時代になると「牡丹」も用いたが、これは近衛 家との関係から用いるようになった。 qQ|v~^  
    到了江户时代,“牡丹”作为家纹也开始使用,这与近卫家有一定的关系。 Qp< 6qM35  
    Q}m)Q('Rk  
    伝によれば、戦国時代近衛氏と津軽氏の娘との間に生まれた男子が家督を継いだといい、それを根拠に為信は源姓から藤原姓に替え、家紋も「牡丹」を用いるようになった。津軽氏の牡丹紋は、とくに「津軽牡丹」と称される。 + 1cK (Si  
    根据传言,战国时代近卫氏和津轻氏的女儿联姻并生了一个儿子,由他来继承家督之位,并以此作为依据,津轻为信将自己的姓从“源”转回“藤原”,并将家纹也改成了牡丹。津轻氏的牡丹家纹也因此特称为“津轻牡丹”。 Uq[NO JC  
    :Tjo+vw7$H  
    その他、津軽氏では「錫杖」「輪宝」を用い た。錫杖は、それを突き鳴らすことで発する金属音が猛獣、毒蛇のたぐいを退散させる行者の道具であった。それが、仏説に煩悩を去らしめ、三界を離脱せしめる功徳のシンボルとなった。 {j^}"8GB  
    此外,津轻氏还使用“锡杖”和“轮宝”。所谓锡杖,就是通过敲打发出的金属响声将毒蛇猛兽等赶走的僧侣行者的道具。而锡杖在佛法中也可去除烦恼,成为使人突破三界(欲界,色界,无色界)桎梏的功德象征。 JM!o(zbt  
    p~M^' k=d  
    輪宝は、車の周囲に鋭利な刃をつけたもので、その回転によってどんな敵も破砕せずにはおかない。護法、護身の法器として、古く から修験者に尊ばれた。 #^eviF8  
    所谓轮宝是在轮子的周围带上锐利的刀,其运转之时挫败一切强敌,无往而不利。可以说是护法护身的法器,自古以来就受到修行者的尊崇。 .ipYZg'V  
    +='.uc_  
    津軽氏の家紋は「卍」といい、「錫杖」「輪宝」といい、いずれも抹香くさいものばかりである。これは武士としての信仰心とともに、戦場において仏の加護に与ろうとしたものと考えられる。 g y &B"`  
    津轻氏的家纹有「卍」、锡杖和轮宝,怎么说都是些宗教意味的物体。这被认为不仅代表作为武士的信仰之心,也包括祈祷在战场上能获得神佛保佑。 A3h[VnuG,  
    CRS/qso[Q'  
    また、支流黒石津軽氏は、「牡丹」を定紋として「フツの字」を用いた。フツの字は「亜」の字と間違えられやすいが、勧善懲悪とか怨敵退散などの仏教的意味をもつ。閻魔さまの着物はこのフツの字が散らされている。本家同様にこちらも宗教くさい家紋といえよう。 [S*bN!t  
    此外,分支黑诗津轻氏使用牡丹作为定纹使用「弗」字。这个字容易与「亜」字混淆,带有劝善惩恶,驱逐恶敌等佛教意味,阎王所穿的衣服就布满这个字。可以说哪怕是支流,黑石津轻也和本家一样选择了宗教意味深厚的家纹。
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  • 顶端 Posted: 2008-05-04 20:32 | 34 楼
    藤原樱千代
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    呵呵,并不劳累,也就是20分钟的事情…………
    顶端 Posted: 2008-05-04 20:39 | 35 楼
    藤原樱千代
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    南部氏家纹的由来 DHd9yP9-  
    G!u o KiL  
    南部氏の家紋は「対い鶴に九曜」として知られる。本来は、南部光行の画像にも見られるように武田氏族らしく「割菱紋」で あった。室町時代の応永十八年(1411)、南部守行は根城南部光経とともに秋田の安東鹿季と戦ったが、その陣中に二羽の鶴が飛来し、それを瑞祥として兵 を進めたところ勝利をおさめることができた。戦後、これを記念して家紋を「二羽鶴」に改めたのだという。 L "P$LEk  
    南部氏的家纹以“对鹤配九阳”而为人所熟知。最初,在南部光行的画像当中所出现的那样,南部氏的家纹是像武田氏那样的“割菱纹”。 室町时代庆永十八年(1411),南部守行和根城南部光经一道同秋田的安东鹿季作战,据说那时两只仙鹤朝他阵中飞来,南部氏将此视为吉兆并一鼓作气,战胜了敌人。战后为了纪念此事,故将家纹改为“对鹤”。 d.3-@^P  
    lqTTTk  
    一方、初代光行が建久四年(1193)の春、源頼朝に従って浅間山に狩をした。そのとき陣所近くの池に鶴が二羽まいおりたのを、頼朝は鶴を殺さないようにして射とれと部下にいった。光行は進み でて一羽は翼を、もう一羽は足を射て生け捕りにした。頼朝は一羽を天皇に献じ、一羽を陣中において光行を大いに誉め讃えた。南部氏の「対い鶴紋」はこれを 記念したものだともいう。 M6[&od  
    还有另外一种说法,说是南部氏先祖南部光行于建久四年(1193)的春天跟随源赖朝在浅间山狩猎。那时有两只仙鹤飞落到阵所附近的池塘中,赖朝为了不杀仙鹤命令部下不准射箭。而光行却前进几步,射了其中一只仙鹤的翅膀和另一只的脚,遂将两只生擒。赖朝将其中一只献给了天皇,另一只留在自己阵内,并对光行大加赞赏。据说,南部氏的“对鹤纹”也是为了纪念这件事情而来的。 NVAt-u0LB  
    Cq(dj^/~m  
    永享七年(1435)に鎌倉公方が、常陸長倉城主の長倉遠江守を追罰した戦記物『羽継原合戦記』には「ひすつるは南部かもん」とあり、南部氏がこのころには「菱鶴」を家紋としていたことが知られる。戦国時代に至って、現在のような「対い鶴紋」に変化したようだ。 py6 |uGN  
    永享七年(1435),镰仓公方讨伐常陆长仓城主长仓远江守。在记录此次战役的《羽继原战记》中写有“菱鹤乃南部家纹”等句,由此可知南部氏当时已将“菱鹤”当作家纹。这个家纹似乎是历经战国时代才转变为今天的“对鹤纹”的。 $0~H~ -  
    k^:)|Z  
    南部氏の対い鶴紋は胸に記された「九曜」が特長的なものだが、この九曜紋は下総の千葉氏の例でも知られるように、武家が信仰した「妙見信仰」にちなんだも のであろう。南部氏は定紋の「対い鶴」を据えた軍旗が知られるが、この「九曜」のみを取出して旗印に据えた軍旗も用いている。江戸時代の川柳に「鶴の胸  出来物らしく 紋をつけ」というのがあるが、たしかにそのようにも見える。 K*xqQ]&  
    南部氏的对鹤纹以鹤胸前的九个钱币图样“九阳”为特色,而下总的千叶氏也是使用此“九阳纹”的名例之一,由此可见九阳纹与武家所信奉的“妙见菩萨”有一定的关系。大家知道南部氏曾将定纹“对鹤”放在军旗上,但其实“九阳”也曾经被单独拿出来放在军旗上使用。江户时代流传的川柳诗中有“鹤胸之物作纹”这样的句子,可见确实曾经这么使用过。
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    河村氏家纹的由来 :ZG^`H/X1d  
    |`d,r.+P7  
    河村氏の家紋は、様々なものが用いられているとはいえ「丸の内に直違い(違い棒)」が著名である。武家の家紋の特長として は、戦場における視認性と戦場ですぐ描ける単純で明快な図柄が好まれた。その意味では、河村氏の家紋はまことに武家らしい家紋といえよう。その由来につい て、遠祖藤原秀郷が近江国瀬田川の竜神に頼まれて、三上山の大百足を退治したことに因むという。すなわち、丸は百足を、違い棒は矢をあらわすと伝えられて いる。 .#0),JJZ[  
    河村氏的家纹虽然用过各种不同的图案,但“圆圈内直线交错”的形状最为著名。从武家家纹的最大特点来说,在战场上能方便认知,简约明快的图案是最受欢迎的。由此,河村家的家纹可以说是真正意义上的武家家纹。关于这个家纹的由来,据说是因为远祖藤原秀乡在近江国濑田河受龙神所托,打败三上山上的大蜈蚣而得来。也就是说,有传说认为家纹上的圆圈代表蜈蚣,而大叉代表箭。 9DcUx-   
    o (fZZ`6Y  
    河村氏は、秀郷流波多野氏の分かれであることは本文に記したとおりで、一族には松田氏・広沢氏らがいた。松田氏も家紋に「直違い」を用い ており、その図柄は『見聞諸家紋』に「二重直違い」として描かれている。見聞諸家紋には河村氏の家紋も記され「直違い竹」である。それぞれ、その原型が 「直違い」であることはいうまでもないだろう。 ]4~- z3=y  
    正如本文所记,河村氏是秀乡流波多野氏的分支,其中一族中有松田氏和广泽氏。松田氏也在自己的家纹中也使用了大叉,而那个图案在《见闻诸家纹》书中被描写为“双重大叉”。在这本书中河村氏的家纹也记录在案,并被名为“叉竹”。这两个家纹各自的原型都是大叉,这一点自然是不用说的。 $Lg% CY  
    oz $T.  
    河村氏は相模から発祥して、奥州・越後にも一族が広がっていった。奥州の河村氏の場合、斯波氏に 仕えて戦国時代に至ったが、斯波氏が没落してのちは南部氏に仕えて近世に生き残った。盛岡藩士諸家の系図集『参考諸家系図』を見ると、河村一族諸家が「直 違い」を用いていたことが知られる。 $Gt1T[:QUX  
    河村氏从相模开始发迹,其中一族在奥州和越后也有发展壮大。若说奥州的河村氏的话,在整个战国时代里都侍奉斯波氏,直至后者没落之后,又通过侍奉南部氏而留存至近世。从盛冈藩士诸家的家谱集《参考诸家系图》中可见,河村一组的各家也曾经一直使用“圆圈内直线交错”作为自己的家纹。 ~3-2Iu^F  
    N'hj  
    名字 家紋 rK&ofc]f$  
    姓  所使用家纹 wUkLe-n,dE  
    大萱生氏    違棒紋 下藤紋 左二巴紋 $T* ##kyE9  
    川村氏        違棒紋 " a;z  
    手代森氏    違棒紋 K8E:8`_cx  
    杤内氏        違棒紋 四目結紋 花菱紋 X&qRanOP;z  
    江柄氏        違棒紋 違釘貫紋 左三藤丸紋 V lb L p;  
    大巻氏        違棒紋 蔦紋  /;LteBoY  
    中村氏        違棒紋 藤菱紋 BOqq=WY  
    日戸氏        違棒紋 下藤紋 左二巴紋 0_JbE  
    渋民氏        違棒紋 下藤紋 ^aVoH/q*C  
    玉山氏        違棒紋 百足紋 AMqu}G  
    川口氏        違棒紋 百足紋 0 [6llcuj  
    下田氏        違棒紋 蔦紋 {m5tgVi&  
    沼宮内氏    下藤紋 三亀甲紋 藤丸紋  Ycb<'M*jE  
       |u 8hxa  
    ところで、「直違い」は二つの線を左右から斜めに交錯させた、いわゆる「バツ」形をしている。北陸から東北地方にかけて、死者の出た家は青竹を切って家 の前に立てる風習がある。また、江戸時代に閉門・謹慎の処分を受けた武家は、門に青竹を直違いに組んで人の出入りを禁じられた。古代には、誰かが死去する と直違いで住居を封じ、新たな住居へ移るということがなされていたという。 I\ V33Nd  
    话说,“大叉”就是指两条直线从左右两端斜交,形成所谓的叉型。从北陆地区到东北地区有一个习俗,如果一家死了人,就要切下青竹将其竖在自家门前。另外,江户时代中,加入武士受到了闭门思过的处分,那么在门口也会将两根青竹交叉竖立,表示闲人免入。据说在古代,人死去了之后,人们会用这种方式表示封闭居所,并往别处迁徙之意。 q|m8G  
    5xW)nEV  
    このように、「直違い=×印」は、死者の霊を封じ、内外との交流を断 つ呪術性があった。その呪術性から、武家が戦場の旗印に用いるようになり、やがて家紋に転じたものと思われる。織田信長に仕えた丹羽長秀も「直違い」を家 紋としていたことは有名である。武家の家紋の場合、武運を神に願い神社・信仰にゆかりのあるものが多い。千葉氏の妙見信仰に因んだ「曜星紋」はその典型と いえるものであり、河村氏の家紋も「直違い」のもつ呪術性から家紋に用いられるようになったのであろう。 rN? L8  
    与此类似的,普遍认为“直线相交=叉印”曾是将死者的灵魂封印起来,并阻隔其与外界的交流的一种咒术,因此渐渐延伸到武家将其放在自己的旗帜上的行为,直至最后才转变为家纹。很有名的是,侍奉于织田信长的丹秀长羽也曾经用“直线相交”作为自己的家纹。若说武家家纹的话,与祈求武运的神社崇拜有较多的渊源。因为千叶氏的妙见菩萨崇拜而产生的“日星纹”可谓是其中的典型,而河村氏的家纹也就是因此带有“直线相交”的咒术作用,渐渐成为了家纹的一种。 Z5~dU{XsT  
    'N,3]So i  
    ところで、数ある家紋のなかに神社建築に用いられる「千木」があるが、その図柄は「直違い」とよく似ている。ひとつの推測として、「直違い」は千木から変形したものとも考えられる。 &*g5kh{  
    说起来,有不少家纹中使用建筑神社的千木,图案看上去与“直线相交”颇为相似。作为一种推测,将“直线相交”的大叉型家纹当作千木的一种变形来说也未尝不可。 &rj6<b1A  
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    藤原樱千代
    来ぬ人をまつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
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    来交加贺家的家纹由来了:) 6z%3l7#7Yi  
    —————————— nS?HH6H  
    y#AY+ >  
    和贺氏家纹的由来 >jl"Yr#  
    (~Zg\(5#  
    和賀氏が用いた「笹竜胆紋」は清和源氏のシンボルとされ、源頼朝の紋であったともいわれる。『勧進帳』や『曽我の仇討』な どの歌舞伎でも、源氏を表現するものとして見られる。頼朝が「笹竜胆紋」を自らの紋章として用いた可能性は否定できないが、当時、頼朝が笹竜胆紋を家紋と して用いたとする確かな記録も見いだせない。 Zz?+,-$_*&  
    和贺氏所用的“蓧型龙胆纹”被当作是清和源氏的标志,据说也曾经是源赖朝的家纹。这种家纹在“劝进帐”和“曾我复仇”等这样的歌舞伎曲目当中作为象征源氏的事物示人。虽然不可否认赖朝将“蓧型龙胆纹”作为家纹使用的可能性,但是当时确切的记录却没有办法看到。 GU&XK7L  
    (!X:[Ah*$  
    それは当然のことであって、当時、家紋は一部の武家を除いて定着していなかった。また、頼朝は源氏の氏の長者であって、そのシルシは白旗ぐらいであった。家紋は名字を表わすシルシであり、氏から分かれたものが用いた。つまり、氏の棟梁である頼朝が家紋を用いることはなかったのである。 }sJ% InL  
    虽然被视作理所当然,但实际上家纹在当时只获得了一部分武士的肯定。此外,赖朝作为源氏家族的长者,他所使用的标志应当是白旗之类的。家纹是一个姓氏的象征,与整个氏族所使用的东西不同。也就是说,作为一个氏族的栋梁的赖朝并没有使用过这个家纹。 DA@ { d-A  
    k})9(Sy~  
    とはいえ、笹竜胆紋を用いる武家は、頼朝ともっとも近い流れの家である清和源氏為義流・同氏義時流の諸氏であり、頼朝の落胤を称する奥州の和賀氏やその一族の本堂氏らであった。これらのことから、「笹竜胆紋」が頼朝の家紋であったとされるようになったものであろう。 G#@<bg3  
    即便如此,要使用“蓧型龙胆纹”的武家包括与赖朝血缘上最接近的清和源氏为义一支和同氏义时一支下的各氏,以及声称怀有赖朝庶出的奥州加贺氏和同族的本堂氏。也就是因此,“蓧型龙胆纹”被渐渐认为是赖朝的家纹。 dJ24J+9}]j  
    {7/6~\'/@  
    「笹竜胆紋」は清和源氏のシンボルというよりは、同じ源氏でも村上源氏の代表紋であった。ある書物によれば「久我家では成人になると、"竜胆たすき"の紋 付を着…」とあることから、村上源氏である久我家が竜胆の家紋を使っていたことが知られる。『大要抄』には、中院宗輔の車文が竜胆であったことが記されて いる。中院氏は、久我氏と同じく村上源氏の一流である。その他、六条・岩倉・千種・久世などの村上源氏流公家が竜胆紋を用い、播磨の守護職であった赤松氏 も村上源氏の裔を称し、三つ巴紋に加えて竜胆紋も用いた。 ;prp6(c  
    “蓧型龙胆纹”与其说是清和源氏的象征图案,不如说是同为源氏的村上源氏的代表纹。根据一本书的记载,“久我家成人着‘龙胆带’……”,由此可知作为村上源氏的久我家曾经用过龙胆作为家纹的事实。在《大要抄》里面也记录着中院宗辅的车文是龙胆。中院氏与久我氏一样也是村上源氏的一支。其他的,六条、岩仓,千种,久世等村上源氏一族的公家也使用龙胆纹,担任播磨守护一职的赤松氏也称自己是村上源氏的后裔,在龙胆纹上加了三巴纹来使用。 APc@1="#J  
    STOE=TC>  
    ところで、和賀氏にゆかりのある宮城県刈田疱瘡神社本殿の蟇股に見える和賀家の紋は、 「石畳に立合雲」と「笹竜胆」で、和賀氏関連の遺物にも「石畳紋」が見られる。また、和賀氏を継ぐかたちとなった本堂氏は定紋に「八つ石畳紋」を用いてい る。これらのことから、和賀氏は石畳紋を本紋とし、笹竜胆紋が頼朝の紋であるといわれだしてから、頼朝とのゆかりを示すために「笹竜胆紋」を用いるように なったのではないだろうか。このことは、平家の出自を称する家が、平家の代表紋といわれる「揚羽蝶紋」を用いる事例と通じていて、家紋の由来伝説の一典型 といえよう。 :He:Bdk  
    话说与和贺氏颇有渊源的宫城县刈田疱瘡神社的本殿梁桁间放置的和贺家纹是“石踏配立合云”以及“蓧龙胆”图案,和贺氏相关的遗物中也看得见“石踏纹”。此外,作为和贺氏后继者的本堂氏用“八石踏纹”作为定纹使用。也正是因为这些渊源,开始有人认为和贺氏将石踏纹作为本纹,而蓧龙胆纹则为赖朝所用。在此之后,为了表示与赖朝的渊源,和贺氏才将“蓧龙胆纹”作为家纹使用。这与称自己祖上平家的人使用被成为平家代表纹的“扬羽蝶纹”一样,可谓是家纹由来传说的一个典型。 cuKgO{.GH  
    ^Ws~h\{%  
    ちなみに、近世南部藩士星川忠平正輔が編纂した盛岡藩士諸家の系図集『参考諸家系図』を見ると、南部氏に仕えた和賀氏一族の家紋として、 "R 9kF-  
    此外,近世南部藩士星川忠平正辅编撰的盛冈藩士诸家系谱集《参考诸家系图》中可见,和贺氏作为侍奉南部氏的一族,所使用的家纹有: D1g1"^~g  
    g:,4Kd|  
    名字    家紋 R>0ta  Q  
    和賀氏 笹龍胆紋 立合雲紋 石畳紋 H+ M ~|Ju7  
    太田氏 石畳紋 四目結紋 向白鳥紋 三階菱紋 a9 qZI  
    猿橋氏 石畳紋 舞白鳥紋 SfR!q4b=  
    岩崎氏 石畳紋 EhVnt#`Si  
    鬼柳氏 石畳紋 4@W.{|2~  
    藤根氏 八石畳紋 *l9Y]hinq  
    本堂氏 石畳紋 笹龍胆紋  ePY K^D  
      H{$yy)@F  
    が記されており、嫡流は「笹龍胆紋」、庶流は「石畳紋」を用いたことが知られる。 }`g*pp*  
    以上几种,并可知嫡系使用“蓧龙胆纹”,庶出使用“石踏纹”。 Uis P 8/k  
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  • 永乐通宝:+300(上杉宗信) 详实资料
  • 顶端 Posted: 2008-05-07 17:53 | 38 楼
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    武士の野望 » 东瀛樱花

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